トレイルライド二回目
お正月に中澤さんのところで乗って以来のトレイルライド。
という感じでほぼ平地、距離は20キロ足らず、3時間くらいの休憩多めのトレイルライド終了。
戻ってきた場所
やっとここに戻ってこれた。
身体が回復してくると
身体がほとんど動かないときは何をするにも精一杯で、先のことなど何も考えられない状態だった。
むしろ手足が動き出して、普通のことなら何でも出来てくると、以前の自分と比較してしまって落ち込むことが多い。
もう前の自分に戻れないのかな?と。
筋力を戻そうと思ったら、前のような動きをしようと思ったら、大学生の時からやってきたトレーニングをもう一度なぞらなければいけないのか?あんなに苦しかった筋トレやフィールドでのトレーニングは全部無駄になってしまって、もう一度同じことやらないと戻れないのか?と途方も無い気持ちになる。
衰えてしまった身体で出来ることを考えればいいんだろうけど、なんとか前と同じことが出来ないかと、ちょっとでも身体にいいことを思いついたら全部やってみようとする毎日。
一生このままの身体なのか??
怪我から9ヶ月。まだまだ神経がつながってくれることを毎日祈っている。
どうなるんだろうほんとに。
やっていること・・・。
・筋トレ
・整骨院
・リハビリ
・ラダートレーニング
・ステップトレーニング
・ピアノ
・ドラム
・プラモ
・トレッキング
・サイクリング
針治療とかは??
まずは大胸筋と二頭筋の緊張が何とか取れてほしい。
それから三角筋の痛みが無くなって、首が上を向けるようになれば、やっと普通に身体を鍛えることが出来るはず。そうなったらMTBでトラ練して体幹トレーニング出来るはず!
指の爪
両手の爪を見ると大きく波打ってへこんでいる部分があった。
おそらく、入院して一番ひどかったときに栄養状態が悪かったため、爪にまで影響していたんだと思う。
身体はほんとうに正直に反応していると感じる。
そのへこんだ部分もついに先まできて、次切るときくらいに無くなってしまう。
怪我して6ヶ月。爪は健康に戻るということだけど身体全体はまだまだ。
ひとつずつ身体が元に戻っていくわけだけど、爪のように順調に行くとは限らない。
身体が徐々に動き出した頃のこと
救命医療センターでの最後の2週間ほどは、身体に何の進展も無く、タンのつまりとたまに襲ってくる酸素濃度の低下に従う強烈な息苦しさに耐えるだけの日々だった。
ご飯もまったく食べられず、なぜか何度も見た妄想のような夢の方が現実感があって、どうやってすごしていたがほとんど覚えていない。
ある日、夜中になにを思ったのか足の指を動かそうと試みたら、親指が人差し指の横をすれる感覚があった。でも身体を起こせないので自分の足の指を見ることが出来ない。
すぐに看護婦さんを呼んで確認してもらった。そうすると、うごいているよ!とうれしそうにいってくれる。この頃ナースコールを呼びすぎている僕に対して、看護婦さんたちはほとんど感情を押し殺した対応になっていたが、この時だけは声に喜んだ感情が含まれていたので、すごくうれしかったことを覚えている。
救命医療センターから赤十字病院に移り、やっといわゆるPTの先生が付くことになった。
毎日たった15分ほどだったが、今思えばやっとPTらしいPTを受けることになった。
その先生は支えなし座位を取らせることを始めた。
絶対に出来ないと思ったが、数秒であればふらふらとしながらも身体を支えることが出来た。
すぐに起立性低血圧に襲われて、貧血で強烈な頭痛に襲われるので5秒も持たない。でもそれまで2ヶ月弱ベットに縛り付けられていた身体が、すこしだけ重力に逆らうことが出来た瞬間だった。
すぐに頭の重さに耐えられず、どちらかに倒れそうになるのをPTの先生に支えてもらいながら数秒だけ座る体制になる。
なんだろう?そんなに大きな感動はなぜだかない。あ、出来るんだ、と言うだけの印象。
数日すると今度は立ってみようと言い出す。
それは無理だろう、と思ったが、支えてもらいながら膝を伸ばすと、これも数秒間だけなら立ち上がることが出来た。足なんてまったく動いていなかったのに、車椅子から立ち上がる動作をしようとすると、膝に力が入るの分かった。
立ち上がるってどんな動作だったっけ?と頭で考えながら動く。
自分でもどうやってやっていたか思い出せない。
ほぼ1ヵ月半ぶりくらいの立ち上がった印象は、高いな、ということ。
これも大きな喜びはなぜだかなかった。ああ、立てるんだ、というだけ。
立てるようになって良かった!とか全然無い。あるがまま、立てるんだな、と再確認したような。
現実はドラマのようなシーンは起きない。
PTの先生に言われて立つという行為をすることに精一杯、立ち終わってリハ室のベットに倒れ込んだ後は貧血の気持ち悪さにひたすら耐えるのに精一杯。
涙を流して、オレ立った!なんて感情を爆発させている暇なんてなかった。
初めて歩けたときも、初めて走れたときも、箸を使えたときも、感情を爆発させることなどなかった。
はい、出来たんだな、というだけ。超現実主義というのかふーん、という気持ちだけ。
そういうのは後からしみじみあの時立てるようになってうれしかったな、と思い出すだけだと思う。
それか、あの時は本当にうれしかった!とか後から作話してるんだと思う。
入院中の世の中の出来事
入院中に起こった世の中の出来事。
3/7 佐村河内記者会見
4/8 小保方さん記者会見
4/16 セウォル号転覆事件
4/23 オバマ大統領来日
5/17 ASKA容疑者逮捕
5/20 パソコン遠隔操作事件の収束
6/12-7/13 ワールドカップブラジル大会
TVしか見れない時期は、朝と昼と夜と同じニュースを三回見る毎日だった。
興味ある番組もあんまりなく、朝と昼のワイドショーと夜のニュース番組を仕方なく見ていた。
セウォル号事件のときは東京海洋大学の渡邊教授を日に何度見たことか。番組のハシゴとかそんなに人材いないのか、テレビ局が怠慢なのか。
同じ説明を3回聞いてたけどあんまり内容記憶できてない。
指すら動かない時期は看護婦さんにチャンネルを変えてもらわなきゃならないので、昼間に付き添いに来てくれてる人に新聞広げてもらって、その日の夜に見るチャンネルを決めていた。
一番気がまぎれるプロ野球中継を選択することが多かった。サンテレビの阪神中継。
春先阪神は絶好調でマートンとゴメス、メッセンジャーが完璧な出来だったな。
そのもっと前はテレビを見る気力もないし、テレビの方に顔を向けることができないので、病室に放置されていたラジオを夜の7時から10時くらいまでだけ流してもらっていた。
特に聞いているわけでもないんだけど、ちょっとでも辛い身体の状況から気がまぎれるように、という感じで。
802が聞ければいいんだけど、ラジオの調子もよくなくNHKしか入らないときは、まったくわからないクラッシックを延々2時間とか聞かされていたのを覚えてる。
暗い病室でモニターのピコンピコン言う音と、血栓防ぐための圧迫ポンプ装置のシューシュー言う音が響いている中で、延々よくわからないクラッシックが流れている。
先の希望とか今後の回復とか考える余裕も無く、一瞬一瞬過ごすのが限界な日々。
指のしびれ
怪我をして2ヶ月くらいはまったく手が動かなかった。
左手の親指がほんの少しだけ動く程度。他の指にはすこしだけ力が入る感じはあったけれど、ほぼまったく動かない。
最初の2週間ほどは感覚もほとんど無かったが、徐々に皮膚の表面の感覚が戻ってくるにつれ、数日に一度強烈な痺れに襲われるようになった。
その不快感は痺れという表現が合っているのかどうか分からない。
剣山で両手を刺され続けているというのでも違うし、両手の毛穴からもぞもぞと何かが這い出しているというのとも違う。スチールウールで手の全体をずっと覆われ続けていると言うのが一番近いか??
言えるのは、それが起こるとそれに耐えるのに精一杯になって、誰かと話すことや何か考えることすら出来なくなってしまうことだ。
起こる日と起こらない日は前兆もないしわからない。
起こらない日は本当にハッピー。心健やかにすごせる。
いったん起こってしまうと、その日は地獄。
両手をどんなにしても強烈な気持ちの悪さが離れない。
誰ともしゃべりたくもないし、何もしたくない。気持ちの悪さに耐えることだけで冷や汗が出てくる。
なぜか強烈は怒りの感情もわいてくる。
こんなことにこれからも毎日のように襲われるのは耐えられない。
ほかの事は耐えられる、でもこの気持ちの悪い感覚をこれからもずっと味わっていかなければならないなんて、ほんとうに、どうしても、絶対に耐えられないと感じた。
そのことを主治医に訴えると、なにやら強烈そうな薬を処方された。
なにかわからないが、夕方くらいに飲むように言われたように思う。
この薬は効きが強いからかなり良くなるはず、と言われていたが、まったく効く気配は無かった。
そんな時、何度も同じ夢を良く見た。
なぜかネット上の掲示板で手の痺れについて話し合っているのだ。
そこには同じような症状に悩まされてる女の子がいて、他には誰にもわかってもらえなかったけどこの掲示板に救われた、と言っていた。
その掲示板で我慢する方法として紹介されていたのが、泳げたいやきくんの替え歌を歌ってごまかすことだった。毎日毎日僕らは鉄板の手がしびれていやんなっちゃうよ、と言う部分しかなかったように思うんだけど、なぜだか本当にその曲を頭の中で繰り返してみると我慢できたように思う。
そんな日が何日続いたのか覚えていない。
いつの間にかその苦しみは襲ってこなくなった。唐突になくなってしまった。
そして少しずつ指が動き出した。。